※画像は1992年~のMC21SP仕様です。( 一部仕様が異なります)

NSR250R 諸元

発売年 1992年 生産 国内 全長 1975mm
全幅 655mm 全高 1060mm 重量 152kg
最高出力 45PS /
9,500rpm
最大
トルク
3.7kg·m /
8,500 rpm
エンジン 水冷2ストローク
V型2気筒
排気量 249cc 諸元表は1992年当時のものとなります。

私は1988年に、フルモデルチェンジしたばかりのNSR250R[MC18]を購入した。……が、あまりにストイックでピーキーな乗り味に「これは本当に公道用バイクなのか!!」と驚きを隠せなかった。

空前のレーサーレプリカブーム

――1980年代初頭に日本を沸かせたバイクブームにより、バイクの性能は日進月歩で向上して行く。その性能を証明する格好の場がレースへの参戦であり、市販バイクはいかにレーシングマシンに近いかが競われ、バイクブームは80年代中頃に「レーサーレプリカブーム」へとスライドして行く。その熾烈な競争の中で登場したのがNSR250Rである。

1966年に世界GPロードレースのサイドカーを除く全クラス(50/125/250/350/500cc)を制覇したホンダは、その成果をもって翌67年シーズンでGP活動を一旦休止するが、10年後の1977年に世界GPへの復帰を宣言。当時、WGP500はヤマハやスズキの2ストロークが覇権を争っていたが、ホンダは敢えて4ストロークで挑戦。1気筒当たり8バルブの楕円ピストンを持つV型4気筒エンジンをモノコックフレームに搭載したNR500を開発し、世界GPに戻ってきた。

しかし4ストロークのNR500は奮闘するも結果が出ず、ホンダはレースに勝つことを第一義とし、2ストロークV型3気筒のNS500を開発。1982年に投入すると開幕戦から上位を走り、翌83年はフレディ・スペンサーが駆ってチャンピオンを獲得し、ホンダは16年振りにWGPタイトルを手にした。同83年にはNS500の技術を投入したホンダの市販250ロードスポーツ初の2ストローク車となるMVX250Fを発売するが、その時すでに2ストロークV型2気筒の市販モデルNS250R/Fと、市販レーサーのRS250Rを同時に開発しており、翌84年5月にレーサーレプリカNS250Rと、カウルレスモデルのNS250Fを発売した。

NSR250R
NSR250R
NSR250R

レースシーンでは1984年に、新たに2ストロークV型4気筒のNSR500を投入。翌85年は市販レーサーRS250Rをベースに開発したワークスマシンRS250RWがGP参戦し、WGP500とWGP250の2クラスでフレディ・スペンサーがダブルタイトルを獲得する。そして1986年、ワークスマシンはRS250RWをベースに開発したNS250となり、その技術を存分に投入した市販モデルのNSR250R[MC16]が同86年10月に発売された。

MVX250FからNSR250Rまで約3年半の間に、市販バイク、市販レーサー、ワークスマシンが複雑にリンクしながら驚くほどのスピードで開発。レースに勝つため、そして激化するレプリカ戦線で勝つためにも、このスピードが必須だった。

2ストロークでの怒濤の巻き返し

元来、4ストロークを主軸に成長してきたホンダは、80年代初頭のバイクブームの250クラスでも4ストロークのVT250Fが大ヒットしたが、ヤマハのRZ~TZRシリーズやスズキのRG250Γなど2ストロークのレプリカ車に直接対抗するモデルが不在で、後発でMVX250FやNS250Rをリリースしたが、その壁は厚かった。しかし最新技術とGPイメージを強力に放つNSR250Rの登場によって図式は一変した。

空力特性を考慮したアッパーカウル
ワークスカラーを纏ったセンターカウル

NSR250Rの2ストローク90度V型2気筒は、エンジン回転数に応じて排気タイミングをコンピューター制御するホンダ独自のRCバルブによって中低速域から高速域まで力強い出力特性を発揮。また2ストロークの欠点でもあるオイル消費は、これもコンピューター制御によるオイルポンプ機構で消費量を低減する。フレームは目の字断面の極太なアルミツインチューブで、スイングアームも角断面のアルミ製。そのフレームを包み込むフルカウルや大型のシートカウルは、空力特性はもちろんワークスマシンを色濃く反映した形状やカラーリングも魅力的だった。

しかし2ストロークレプリカのライバルと戦い続けるには、それまでと同等以上の開発スピードが求められ、1988年にフルチェンジしたNSR250R[MC18]が登場。PGMキャブレターやPGM-CDI点火システム、新型のRCバルブ-2など総合的にコンピューター制御を行う。フレームはさらに高剛性な異形五角断面材となり、後輪にラジアルタイヤを履き、フロントブレーキは異形4POT対向ピストンキャリパーと強力な足周りに進化。また、市販量産車二輪車で初のマグネシウムホイールを装備する「SP」をラインナップに加えた。1989年には、より高度なコンピューター制御や五角断面のスイングアーム、前後ラジアルタイヤやそれに伴うディメンション変更など大幅にリファイン。SPには乾式クラッチの装備が追加された。

SP仕様のテールカウル
SPに採用されたマグテックホイールのマーク

公道用とは思えない性能

その1988年、私はホンダのレース部門であるHRCと契約し、ワークスマシンNSR500で全日本GP500クラスに参戦を開始。それまで私的に所有するバイクは4ストロークの大型車が多かったが、これを機会に2ストロークのレプリカにも乗ってみたくなり、モデルチェンジしたばかりのNSR250R[MC18]を購入したのだ。

しかしNSR250Rに乗ってみて、本当に驚いた。それまでもレースでは全日本GP250クラスで2ストロークマシンには乗っていたし、NSR500は文字通り2倍の排気量を持つレーシングマシンだが、公道で走らせるNSR250Rのストイックな乗り味は、それらの比ではなかったのだ。

メーター

サーキットをハイアベレージで走るには相応に高い剛性が必要。そしてNSR250Rは市販レーサーのRS250Rやワークスマシンとも同時開発したため、車体の剛性は極めて高い。そこにパワフルでピーキーなエンジンを搭載しているのだから、その高性能ぶりは推して知るべしなのだが……公道はサーキットのような平滑な路面とは異なる。

私は「このバイクは本当に公道用なのか!?」と思うほどにアグレッシブなフィーリングに衝撃を受けたが、逆を言えば、これほどのインパクトを与えるバイクは多くない。だからこそNSR250Rは高い人気を維持し続けるのだろう。

2サイクルの代名詞的な存在へ

話を戻すと、NSR250R は1990年に三代目の[MC21]にモデルチェンジ。シリンダーやクランクシャフトなどエンジンの主要部品を新設計し、制御システムがPGM-Ⅲへと進化。チャンバーのレイアウトに自由度を持たせるため、屈曲したスイングアーム「ガルアーム」を採用し、アルミフレームも新型に。フロントカウルはよりスラントして横長ヘッドライトを装備し、テールカウルも鋭く跳ね上がった新形状に変わった。[MC21]には乾式クラッチと減衰力調整機構付きの前後サスペンションを装備した「SE」と、SEの装備に加えマグネシウムホイールを履く「SP」も用意された。

そして1993年に最終型となるNSR250R[MC28]が登場。外見上の大きな特徴はリヤの片持ち式スイングアーム「プロアーム」の採用だが、メーター液晶パネルのカードリーダーに「PGMメモリーカード」を差し込むことで主電源やコンピューターの起動、車体内蔵式のハンドルロックの解錠も行うシステムが斬新で、制御システムもPGM-Ⅳに進化した。[MC28]もSEとSPをラインナップする。

MC21のガルアーム(スイングアーム)
フロントの減衰力調整アジャスター

こうしてモデルチェンジを繰り返してきたNSR250Rだが、1990年代半ばにはレプリカブームが下火となり、また厳しさを増す排出ガス規制の影響もあり、徐々にモデルを整理して、最終的には1996年に発売したNSR250R SEを継続販売し、1999年に生産を終了した。

1980年代初頭からのバイクブームでは、とくに中型クラスの400cc と250ccが人気を二分した感が強い。400ccは4気筒化による性能向上が、レース参戦やレーサーレプリカ人気へと進んで行った。対する250ccは、当時の2ストロークエンジンで競われるGPレースが直接的なモチーフとなり、レプリカといえどレーシングマシンと市販モデルでほとんど境界を持たずに進化した。

そのためノービス(アマチュア)ライダーが競うSPレースも大いに盛り上がり、2ストローク250ccロードスポーツは、レース好きやレーサーを目指すライダーにとって、もっとも注目すべき、現実的な憧れとして存在した。NSR250Rも、そんな2ストレプリカ群の中でひときわ輝いた一台だ。

筆者プロフィール

宮城光

1962年生まれ。2輪・4輪において輝かしい実績を持つレーサーとして名を馳せ、現在ではモータージャーナリストとしてMotoGPの解説など多方面で活躍中。2022年、バイク未来総研所長就任。